【ハケン】営業マンの品格

これは、とある派遣会社の人材派遣の営業マンのお話。大学の同期から「これからは人材派遣業の時代になるぜ。」となんとも単純な話をうのみにして、地元にある創設5年目の人材派遣会社に入社。怖い先輩社員や、お客様とのかかわりの中、紆余曲折を経て、今は保育関係の職員の人材派遣を専門に扱う営業マンとして働いています。会社に入って17年たち、45歳になった自分が保育士や幼稚園の先生、また園長先生たちと関わることができていることに感慨深さをおぼえるこの頃です。何故、感慨深いかって。それはこれからのお話を読んでくれればわかりますよ。涙なくては読めないとまではいきませんが、今でも一番楽しくて毎日がハラハラドキドキしていたなと思える貴重な時でした。では今からそんな夢と冒険の18年前に遡っていきましょう。

 

~混沌~

時は2001年4月。2000年問題などとうの昔に去り、景気も悪く日本自体が混とんとしていたと記憶しています。楽しみなのは2002年に日本で行われるサッカーワールドカップと、営業車の中で毎日食べ比べしているカップラーメン位。当時、ご当地カップラーメンというのがはやり、生めんと、レトルトのチャーシューなどが入ったカップラーメンが人気を博していました。建設重機レンタル会社の営業マンとして毎日同じところにセールスに通い、あっちの競合よりやれ10円高いとか、お金が無いから今月は入金できないとかクライアントのわがままに辟易していた時、たまたま見た雑誌の背表紙にこんな広告がありました。「英語を使って、世界の子供たちに日本の文化を伝えましょう‼」なんて、今思えばありきたりの内容ですが、当時はとてもワクワクしたことを覚えています。すぐさま、広告先に電話し資料を送ってもらいました。当時は大学を卒業し新卒で入った会社で、それなりの成績はおさめていたものの建設不況もありボーナスは上がるところか30%カットや、毎日先輩が帰るまで帰れない苛立ちと、大学時代からつきあっていた3歳下の彼女もクラブの後輩と付き合うことになり、なんとなく日々を無駄に過ごしていた中、一つの希望が生まれた瞬間でした。実は、大学時代はアルバイトで従弟やその母(叔母)の友達の娘に英語の家庭教師をしたり、日本語教師の資格をとってNOVAで知り合ったイギリスやオーストラリアの友達に日本語を教えていたりました。英語を使って世界に出て働きたいという漠然ではありましたが、よくある「若いね~」とか言われそうな夢物語のようなことを真面目に考えていた学生でした。ただ、当時は本当に不景気。内定をもらったところに入るしかない、企画系のような花形職はほとんどなく泥臭いどぶ板営業のような求人ばかりで、その中でも内定をもらった中でより自分にとっていいだろうという企業を選ぶしか選択肢がないような時代でした。それでも正社員で採用されればまだまし、実際に大学の同期では就職できぬままアルバイトを続けたり、大学院に残ったり、はたまたまだまだ青春を謳歌したいとバックパッカーになった友達も多くいました。今みたいに保育士さんの需要がとても高くて求人が1人に対して6つも7つもあるなんて時代は変わったなぁといまでも思うくらいです。ある程度恵まれた中でも満たされない毎日から何とか抜け出したいという気持ちを、V字回復させた瞬間でした。
27歳になり、周りでは結婚したり、店長や主任などのポストに就き始めた中で、あっさりと現状を捨て、新たなステージに進もうと考えられたのは30歳をまじかに控えた焦りと、まだまだいけるといった生命力のおかげでした。

 

~地涌~

ではこの地から湧き出るような興奮と、安定をあっさりと投げ打つに余りあると、筆者が感じたことを説明しましょう。正式名は控えますが、単純に言うとエージェントを通して外国にある学校で日本語の教師をしませんかというものでした。本部は文京区にあり、一回だけ説明に行きましたがこんなちょっとの説明でいいんですかといった感じの簡単なものでした。ただ給与が出るので英語や地理、歴史の試験もあり、まさかここから勉強しないといけないのと思われるかもしれませんが、筆者にとっては何てことない。何故なら英語は大好き、大学時代は旅行業界を目指していた時期もあり、旅行業務取扱主任者資格もとっていて日本並びに外国の地理、名所、歴史など遍く学んでおり、また社会大好き少年でもあったので、その勉強自体が趣味といった感じで全く苦労しませんでした。

 

~焦燥~

何日かして、簡単な英会話の試験と筆記試験を行い点数はわかりませんが、とりあえずパス。これで外国で働くことができる!と気は急いていましたが、そこからが長かった。
待てど待てどどこの国のどこの学校で働けるのかの通知が来ない。会社にも辞めることを伝えられないし、結構数字も上がってきてちょっと、なんかこの仕事面白いんじゃないとか感じちゃってるし。同期や先輩、はたまたお客さんとも仲良くなって結構毎日楽しくなってきた中で半年位経って、ようやくエージェントから通知が来ました。ある程度先進国とは聞いていましたが、英語圏でもアフリカとかだったら水とか飲めるのだろうかとか、寒い国ならしんどいなとか恐る恐る封を切って書類に目を通しました。通知を見た瞬間、運命的な物を感じました。赴任先の国はオーストラリア。中でも有名なシドニーやケアンズ、ゴールドコーストの所謂東側の正反対、西オーストラリア州の州都である「パース」という都市でした。実は西オーストラリアには昔から何となく親近感を持っていたのです。筆者が育ったのは千葉県でも結構な田舎。電車が30分に1本しかないような東京では考えられないような交通事情。車は一家に1台どころか一人に1台。当時は中学の卒業式になると単車に乗った先輩たちが「世露死苦」のごとく校庭を爆音でエンジョイしているような絵にかいたような田舎でもあり、何となくオーストラリアといったらオリンピックも行われたシドニーや、旅行のメッカのゴールドコーストなどの東側のイメージの場所よりも、人の数よりカンガルーの方が多いといったイメージの西側エリアに魅力を抱いていました。そんなパースにあるモンテッソーリ教育を行う3歳~12歳の子供が通う学校が赴任先でした。まだインターネットもダイヤルアップで海外のサイトになどアクセスできなく情報が少ない中ですが、夢と希望と、ほんの少しの不安を抱えながら、上司に退職意志を伝え、3ケ月で取引先への引継ぎをし、2002年4月15日に日本を旅たっちゃいました。では次回は2019年12月16日に第二回目を掲載します。第二回目のあらすじは、その学校での出来事になります。では乞うご期待。

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